雑誌「生物の科学 遺伝」別冊14号
はじめに黒岩常祥・中野明彦
20世紀は生物学にとって革命の時代であったが,その第一次革命の契機となったのは1953年のワトソンとクリックによるDNAの二重らせんモデルの提唱である.その後,生物現象を分子の言葉で理解しようとする分子遺伝学,分子生物学が急速に発展し,これらの方法は50年余りを経た現在まで成功裡に進んだ.そして,21世紀を迎えた今,生物学の第二の革命というべき時期を迎えている.それは,生命現象の解析にあたっては,生物の設計図(生物が生きるうえで必要な最小の遺伝子群)であるゲノムの全塩基配列の解読を常に基盤におかなくてはいけなくなったということである.すでに多くの細菌に加え,出芽酵母,分裂酵母,線虫,ショウジョウバエ,ヒト,シロイヌナズナなどの真核生物のゲノムの全塩基配列が決定され,一日に数百の遺伝子が同定されていっており,さらに多数の生物ゲノムの全塩基配列が決定されつつある.この時代にあって生物学者は,未知の生物学的現象を,生物の全ゲノムの既知の塩基配列や遺伝子と対応づけ,さらに単一遺伝子によるだけでなく,複数の遺伝子,そしてそこから発するタンパク質の高次な構造を考慮し,網羅的に分子レベルで対応づける必要性に迫られている.この時代の変換期において,生物現象をシステムとして統一的に理解する方向が必要となってきている.
しかしながら生物学の多くの教科書は,未だに各章に羅列的な記載が多く,章内である程度の整理ができても生物学全体としての整理が不十分である.生物学も,化学や物理学と同様にコドンや遺伝子を基本に化学構造のうえから各現象を説明できる時代になってきているのではないかと考えている.どのような章の組み立てが最適かは議論のあるところであるが,生物学を統一的に理解するのには,生命が誕生し,原核生物の時代を経て,真核細胞が生まれ,多細胞が出現し,そして生態系が確立されていくといった生物進化の順に現象を整理して記載していくのが適当ではないだろうか.
生命進化の各段階において,ゲノムを基盤に生物の理解がそれなりに進んだとしても,生物は未だ未知な現象に満ちている.われわれは原核生物ですら試験管内で生みだすことができない.また真核生物の起源に関して,ミトコンドリアや葉緑体の起源が理解できてきたとしても,真核細胞の重要な小器官であるマイクロボディ,ライソゾーム,ゴルジ体,小胞体などの起源と進化は構造面だけでなく機能面でも明らかでない.そもそも原核生物と真核生物を分ける核膜の起源すら未知な点が多い.このような不明な現象は各階層において多々あり,これからの生物学の進展に期待がかかる.
以上のような現状をある程度考慮して本特集を整理しまとめてみた.このような特集を組むにあたって懸念したことは,まず専門家の先生方がお忙しい中で書いて下さるだろうか,書かれたものの全体のバランスは大丈夫か,などである.しかし幸いにも,できあがった特集を読んでみるとどれをとっても力作であり,やはりその分野を代表する先生方にお願いしてよかったと思っている.各章に入れていただいた図も,たいへんわかりやすく整理されて簡潔なものとなっている.また,文献に関しては誌面の都合上,先生方にたいへん無理をお願いして少なくしていただいた.その結果,予想以上に全体がよく整理されており,読者の期待に応えられるのではないかと思っている.この特集がこれからの生物学の基本的な書となり,読者のお役にたてば幸いである.
(くろいわ つねよし,東京大学大学院 理学系研究科 生物科学専攻)
細胞の「ミクロコスモス」に進化とゲノムという観点から迫るという本企画は,細胞および細胞小器官や細胞骨格という微細な世界に,現代の最先端のゲノム科学というナイフを当ててみようというものである.細胞の構造と機能という,いわば古典的な細胞学は,さまざまな分子生物学的な手法の導入と最先端の微細・超微細構造観察技術の発達により,現代分子細胞生物学として華麗に生まれ変わった.今や,遺伝子・分子レベルの記載のない細胞生物学は考えられないし,またさまざまな顕微鏡を駆使して現象を目で観ることの意義もますます重要になりつつある.
細胞の中で起こっていることを知るうえで,共編者の黒岩先生が,形態学のアプローチから切り込む代表選手であったとすると,私はどちらかというと逆に,遺伝子やタンパク質といった分子のレベルから攻め立てたいタイプであった.あったと過去形で書くのは,今やそのアプローチの違いは最終的にはあまり意味をもたず,形態から入っても分子の知見に充分迫っていけるし,遺伝子を同定しても,その機能を目で観て理解するところまでもっていかないと,本当に理解したことにならないという時代になってきたからである.細胞の中での現象をできるだけ精密に目で観,そこで起こっていることを分子の言葉で説明することが求められている.どちらから攻め込んでも究極の目標はたぶん共通のところにある.
この数年のゲノム科学の発展は目覚ましく,多くのモデル生物についてDNAの配列情報の解読は完了しつつある.また,異種ゲノム間の比較によって,生物の進化と多様性の問題も非常に精密な科学として語られるようになり始めた.これらの膨大な情報をこれからどのように生かしていくかが,新世紀の生物科学にとってきわめて重要だろう.細胞という生命の基本単位,その細胞内の微細な世界をゲノムと進化というキーワードで見つめてみよう.そうすると何が見てくるだろうか? その答えの一部がこの別冊号に収められている.わが国の第一線の研究者の方々が,忙しい時間を割いて真剣にこの問題に取り組んでくださった.この場をお借りしてお礼を申し上げたい.私自身にとっても,自分の研究というものをそういう観点で見なおしてみることはなかなか新鮮であった.各章を読んでいただくと,細胞の世界がまだいかにわからないことだらけであるかがよくわかることと思う.読者の中から,一つでも多く謎を解いてみたいと思う方が現れたら,編者として大きな喜びである.
(なかの あきひこ,理化学研究所 生体膜研究室)
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